深夜カップラーメンを食べる、それは至高の瞬間。

スポンサーリンク

深夜に食べるカップラーメンほど背徳心をくすぐられるものはない
家族にばれないように、忍び足でキッチンに向かう。決して音は立ててはならない。

小鍋に水を注ぐとき、水量には細心の注意を払わなければならない
焦ってここで水量を間違えると、家族にバレる可能性がグッと高くなるからだ。
耳を澄ませばかろうじて聞こえる程度の、それは山奥の湧き水が微かに流れるような、そんなイメージで、水を注ぐ。

そして最大の緊張は次の瞬間だろう。
小鍋をコンロに乗せて、火を付ける。
たったこれだけの動作に、これから始まるであろうその日一番の集中力を発揮する。

肝心なのは、コンロを回すテンポと手を放すタイミングだ。速くても遅くてもいけない、絶妙な感覚が求められる。

僕はこの技法をサイレント着火と呼んでいる。
ただ実際には、カチッ、チッチッチ…ボッという着火する際の例の音は普通に鳴る。
何だよ全然サイレントじゃねぇか、と言われるかも知れないが、分かっていただきたい。

こういうのはイメージが大事なのだということを。

かつて範馬刃牙がイメージで巨大カマキリと戦ったように、
かつて愚地克巳がイメージで全身の関節を増やしたように、
何事もイメージが大切なのである。

話を本題に戻そう。
例のサイレント着火により、無事に火を付けることに成功すれば、ゴールは近い。

残す所は最後の難関である、袋を破り、粉末スープやかやくを入れるミッションのみである。

この点において、カップヌードルは極めて優秀だ。
比較的サイレントに包装ビニールを外すことが出来る上に、粉末スープやかやくを入れる必要が無い。
(捉え方を変えると、ややチャレンジ精神に欠けると言えるのかも知れないが)

慎重に、ゆっくりゆっくりと時間をかけてカップラーメンを在るべき姿へ変えてゆく。

この角度から開けては音が鳴る、もっと力を抜いて、、手のひら全体で包み込むように、スッと腕を引く、静かに傾けて本体のカップに粉末スープとかやくを入れる。上出来だ。

やがて、お湯が沸き始める前の音が聞こえ始める。
次第に音は大きくなり、、熱湯の完成だ。

ここからの勝負は一瞬だろう。
着火時にはあれだけ慎重だった物音にも、もうそれほど気を遣わない。
スッと腕を伸ばし、サッとコンロのひねる、ボッと火が消える。

小鍋を持ち上げ、カップラーメンにお湯を注ぐ。微かに立ち上がる蒸気とラーメンの匂い。

ふと時計を見ると深夜3時6分。

悪いことをやっているなぁという自覚が、一人にやけた頬から伝わってくる。これぞ至福の時だ。

僕のカップラーメンに対する流儀として、3分間をタイマーで測ることは、決してしない。

そっと目を閉じて、静かにその時が来るのを待つ。

短いようで長い、この時の流れに全て身を委ねる。

中年のボディに、この時間帯にこのカロリーは大丈夫だろうか…スープは全部飲み干してはいけないだろうか…いや少しだけならば…

あらゆる煩悩が頭を巡るが、それらはやがて消えて無くなる。

心が穏やかになり、肩の力がふっと抜けた時、悟り顔で僕はカップラーメンのフタを開ける。

フタを開けると、そこは天国だった。

これまでの苦労が報われたという実感、家族の誰にもばれずに目的を完遂できたという達成感、それらの感情が一気に押し寄せてくる

あっという間にカップラーメンは僕の胃袋へと吸い込まれていった。ごちそうさまでした。

深夜にカップラーメンを作り、食べる。

このなんてことの無い一連の動作も、突き詰めていけば一つの道が拓けるのかもしれない。

月に一度のルーティーンである深夜のカップラーメン活動を文章に起こしてみて、ふとそうおもった。

例えば茶筅でチャバチャバすることを茶道と呼ぶように、
例えば剣山にお花をブッ刺すことを華道と呼ぶように、

本体のカップに粉末スープとやかくを入れ、お湯を静かに注ぐ。
頃合いを図り、静かにフタを開き、麺を啜る。

この行為を麺道と呼ぶことは出来ないだろうか?

カップラーメンの歴史はまだまだ浅いし、身体に悪いだの添加物が多いだのアンチ勢も多い。

しかしそれらの苦難を超えたとき、きっと日本の新しい伝統が生まれるだろう。

イッツ・ア・ジャパニーズフードスタイル、MENDO。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です